なんでもシステム管理者(日本酒大好き!)

システム管理者兼何でも屋をやってます!日本酒にはこだわりを持ってます。多趣味ですが、その時間がなかなか取れないという悩みが・・・

読みました!!「純米酒を極める」

「日本酒とは純米酒のことである。」

唐突ですが、上原浩先生の「純米酒を極める」の第一章のタイトルです。

上原浩先生は残念ながら、すでに亡くなられていますが、長年日本酒業界で全国の蔵の指導されていた方です。尾瀬あきらさんの「夏子の酒」の中で「上田久元鑑定官」が登場しますが、上原浩先生がモデルのようです。直接お会いしたことがないので、本当のところは分かりませんが、「夏子の酒」で描かれていたキャラクターそのままだったのではないかと想像しています。本書の中ではマンガにまで引っ張り出されてありがた迷惑と口悪くかかれていますが、実は内心、先生は喜んでいたのではないかと思います。その証拠に本書中に何度も「夏子の酒」について触れられています(^_^)


 

 ★「夏子の酒」第8巻(kobo電子ブック) 上田先生が登場する巻です★

本書は友人に勧められて読んだ物ですが、読んで良かったと思います。長年の懸念というと大げさですが、疑問が晴れました。

私は以前から「純米派」です。アル添肯定派には「純米信仰」などと揶揄されることがありますが、私は自分の味覚を信じていました。以前にも書きましたが、初めての銘柄のお酒でうっかりアル添酒を買って、飲んだとたんに「んん??」と違和感を感じ、ラベルをよく見るとしっかりと「醸造用アルコール」と書かれてありました。まぁ、しっかり見なかった自分が悪いので、仕方ありません。さらに、もっと以前にあるレストランで「純米酒」を頼んだ時に一口飲んで、口の中でアルコールがピリピリするのを感じたことがありました。この瞬間、「夏子の酒」のあるセリフを思い出しました。夏子が幼馴染の黒岩酒造に行った際に聞かれた「おたくの純米酒は、どれだけアルコールが入ってますか?」というものです。アル添の純米酒、言葉として日本語としておかしいし、もちろん法にも違反しているでしょう。

上原浩先生もアル添を全否定はしないと書かれており、私も全否定をする訳ではありませんが、アル添の純米酒はあり得ないし、自分で買って呑むなら純米酒を選びます。
実はもったいないというか、申し訳ないのですが、お酒を捨てたことがあります。私が日本酒好きと知って、遊びがてら日本酒を持ってきてくれたことがあったのですが、その人は日本酒について、あまりご存知なかったようで、大メーカーの米を溶かして作った純米酒を持ってきてくれたのです。一口は飲みましたが、私の日本酒へのこだわりが、飲むことを許しませんでした。「ごめんなさい」と謝りながら、流しました・・・。

そして、最近、大阪の地酒を揃えた居酒屋のイベントの告知で気になる文章を見かけたのです。この居酒屋には行ったことは無いのですが、以前「菊鷹」のことを調べていて、この居酒屋のブログに辿り着きました。ここの大将は各地の蔵元と交流があるようで、入手難の銘柄も置いてそうなので、いつか大阪出張(滅多にありませんが・・・)の帰りに寄りたいなぁ~と思っています。(ちょっと写真で見る大将が怖そうやけど・・・(^_^;)

で、告知に書いてあった内容は「アル添酒を日本酒と認めない輩がいます」とか「純米酒とアル添酒の両方で日本酒と言うんです。」と明らかに「アル添」肯定派のニオイがします。上原先生が見たらなんと言われるでしょうか?
もちろん、このお店の大将も増量や目先のごまかしのためのアル添を肯定されているわけではないと思います。告知の中でも「アル添は技術で、アル添にしかないメリットがある」と書かれており、それは確かにそう思います。ですが純米酒造りの方が楽であると書かれており、この点はいかがなものか?と思います。残念ながら私自身酒造家ではありませんので、その辺りの微妙なところというか本当のところは分かりません。ただ、本当にアル添の方が手間が掛かるのであれば、その労力を純米造りに注ぎ込むのが筋ではないか?速醸酛を使うのではなく、山廃造りへ、生酛造りへと進めば良いのではないのでしょうか?と思ってしまいます。

またアル添肯定派の論理に江戸時代からのれっきとした技術である。ということを聞いたことがあり、「そうであれば一概に否定しづらいなぁ」とも感じていたのですが本書を読んで、それがこじつけ、あるいは誤解である事が分かり、「ホッ!」としました。

簡単にいうと「柱焼酎(はしらじょうちゅう)」という手法が江戸時代からあったのですが、これは品質を高めるための物ではなく、酒を腐らせないための手法であったようです。江戸時代の酒蔵は、当然、現代の蔵よりも衛生状態が悪く「腐造(ふぞう)」と言って、時折酒が腐ってしまうことがあったようです。それを防ぐための手法が「柱焼酎」であったとのことです。詳しくは、ぜひ本書を読んでください。

 ※2017/5/24追記 上記の江戸時代の文献の名前は「童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)」です。

先生の論では、日本酒は本来ある程度寝かせて秋上がりに製品として完成するものなので、生酒というものは半完成品のようです。ここは(生意気ですが)少し異を唱えたいところです。確かに昔は流通や酒販店での保存状態の問題で、生酒には品質が劣化する問題があったかと思います。ただ、現代では冷蔵保存のままの流通も昔に比べるとはるかに発達しているかと思いますし、全てではありませんが、日本酒を愛してやまない酒販店が大事に日本酒を保存されているところもどんどん増えているかと思います。私が懇意にしている酒販店は、皆そういうお店です。だから、お店に行くとついつい日本酒談義が長くなり、横で待っている愛妻がしびれを切らすこともあります(^_^;
本書の中で、先生は「日本酒を愛していない酒販店が多すぎる!」と嘆いておられましたが、桶売りから転換できなかった蔵同様、そういった酒販店は淘汰されつつあると思います。酒販免許が規制緩和されて以来、スーパーやコンビニでもお酒は買えますし、価格の安いディスカウントショップもあります。限られた資本の町の酒屋さんが生き残るのには何か特色が必要かと思います。その特色の一つとして日本酒を愛し、理解し販売するというお店が少しづつかもしれませんが、着実に増えているかと思います。もし、上原先生があの世から眺めていらしたら、「あの本では、日本酒を愛さない酒販店が多すぎると書いたが、ちょっとづつ、ようなってきとるわ、ほっほっほっ。」とお気に入りの酒を燗しながら、言われているのではないでしょうか。

「純米派」の方もアル添肯定派の方にもぜひご一読してほしい1冊です。

★「純米酒を極める」 上原浩 著★

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